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冠動脈バイパス術との20年 第8弾掲載しました 2018.10.21

冠動脈バイパス術との20年

第一部 大阪編

その10 図書館
 国循の玄関を出て右手にレジデント宿舎がありますが、反対、左手に進むと、すぐに図書館があります。当時はまだ、オンラインで見られる論文はほとんどなく、自分のPCで検索して、読みたい論文の雑誌名、年、号、ページをチェックして、図書館でコピーするのが決まったパターンでした。幸い、心臓血管領域の関連したものは、古い論文やマイナーな雑誌もすべて収められていたので、論文コレクターのようにコピーを集めました。勉強は常に一人の世界だったので、夜中にも入館可能なシステムで、ストレスなく文献を得ることができました。誰かに会うことがあまりに無さ過ぎて、自分の知らないもっと良い方法がほかにあるかもしれない、と心配になったこともありました。10数年の間で唯一、夜中に会ったことがあるのが、たまたまですが、いま埼玉医大に勤務する栃井将人先生でした。
製本された雑誌を探し出して自分でコピーして、メモ書きしながら読んで、ファイルに分別して保管していました。細かい内容やどのファイルに入れているかを記憶しているだけでなく、細かい記述を確認、再確認しやすい優れたシステムでした。現在は、PDFで検索してモニターで読んで、だいたいデスクトップ上のファイルに保管します。しかし、モニター上で論文を読んでも記憶として脳に刻まれにくいようにも思われ、また記憶から掘り起こして、引用や再確認したりすることにも不便を感じたりすることは、加齢に伴う脳細胞の衰えだけが理由ではなく、非効率的なプロセスを踏むことは、記憶のinとoutに際して全く無駄になっているわけではないのでしょう。
建て替え近い国循ですが、先日、この懐かしの図書館に入る機会がありました。地震もあって、建物は危険なほど老朽化していましたが、カビ?の匂いだけは健在でした。記憶の機能に関与する因子かもしれません。

その9 リハ
学会発表とは研究成果を発表する場ですが、ときには、特に良い臨床成績を公表して、ある意味で自画自賛する場である、とも表現できるかもしれません。通常は、わざわざ良くない成績を出して格好の悪い内容を発表する者はいません。この視点に立つと、competitive flowの研究発表はcomposite graftの欠点を曝け出すようなところがありますが、小林順二郎先生は、特に難色を示すこともなく、その後も自由にさせていただきました。
このテーマでの初めての発表は、約300例の術後造影の結果から、competitive flowを来しやすい条件はなにかを明らかにすることでした。学会発表前には、心臓血管外科のメンバーで、リハーサルのようなものが行われます。小児先天性や大血管の先生も含めて、時間無制限の議論の場になりますが、レジデントにとって悲喜こもごもというか、褒められることはほとんどありません。栄誉ある胸部外科学会の口演は採択数が少なく、自分にとって肝煎りのテーマであったので、意気揚々と予演に臨みました。冠動脈バイパスの演題で、グラフトの開存・閉塞もなくこれは何なんだ、といった意見が出され、重い空気になりました。このテーマに関して、あまり他の先生と意見を交わしたこともなく、学会でも自分の考えに沿った定まった論調もありませんでした。データの解析もその解釈や説明も成熟しておらず、もたもたしてしまいました。
意外な先生から重要な一言がありました。「そもそも血流は、圧が高いところから低いところに流れるのや。決まってるやろ。」八木原俊克部長でした。先天性が専門でした。特に、MAPCAと言われる複数の肺動脈を統合して再建する手術でも世界的な権威でした。そのような肺循環では、肺動脈血流が左から右に通り過ぎたり、血管抵抗が異常に高かったり、ムラがあったり、側副血流が影響したり、冠動脈バイパスとも共通する「flow」の現象や問題が起きていたので、その考察でだいぶ先に行っていたものと思います。
一般的に、上の先生の言うことは、面白くない楽しくないと思うようなことが多いのですが、覚えておくと役に立つことも少なくありません。批判的な意見は、特にありがたく記憶する必要があります。大多数の先生が考えていることの象徴であったり、時には意見の分かれている重要ポイントであったりします。ポイントは、論文で証明されていることか、個人的な経験に基づくことか、マメに文献で検証することです。臨床的にもフィードバックできますし、研究のネタやスパイスに役立つかどうかが判定できます。もうひとつは、誰かと議論することの重要性と効果です。雑談でもかなりの効果があります。他人と意見のやりとりを日常的にしていると、学会での受け答えに役立ちます。日本語で答えられないことは、英語であればなおさら答えることはできません。語学力とは異なる問題です。
ともかく、「血流は圧の高いところから低いところに流れる」、このフレーズはありがたく頂戴しよう、と仕舞い込みました。ここから、自分なりに派生させて「血流の方向はグラフトの太さや材質、吻合部の大きさで決まるのではない」。できることなら、雑談や小さい研究会とかではなく、大きな舞台や英文paperで披露したい。

その8 読流
 術後造影検査を見る長い旅に先立って、まず、competitive flowをどのように定義するかが重要と、思案しました。造影剤が血流で行ったり来たりしている、極めてゆっくりで、冠動脈に届くのに長時間要する、自己冠動脈からの造影剤がバイパスグラフトの逆流する、などの表現がありますが、可能な限り単純、明確で再現性の高い定義にしなければなりません。過去の論文では、良い表現はみつけられませんでした。“閉塞グラフト、振り返るとcompetitiveだった“系の論文の弱点でもありましたので、乗り越えなければなりません。仕方ないので、「造影剤が標的冠動脈枝に到達しないときがcompetitive flow」と自分で定義してしまうこととしました。バイパスグラフトを形態的にgradingするFitzgibbonの論文に倣って、グラフト血流のgradingしてしまおうと後付けで理屈をつけました。
作戦が決まったので、実行に移されました。細かい作業を続けることに向いている性格であることは自覚していました。できれば誰かに会いにくい、長時間集中できる環境で、水場が近く便利な場所が好ましい。カルテと造影検査は、別のシステム管理されていたのですが、両方のパソコンが並んでいる場所は限られていました。お茶もあって空調も効いている手術室内の控室に、日曜日や夜間に陣取り、並んだモニターの間を、立たずに椅子に座ったままゴロゴロ行き来して、データを集めました。特に厄介なのは、自己冠動脈の狭窄病変の部位と程度を評価することでした。カルテの検査レポートに書かれた表はありましたが、個々の症例により、枝ぶりには違いがありますので、実際にバイパスが繋がれた冠動脈枝の狭窄度を確認するには、結局のところ、自分で術前の造影画像とカルテの評価、術後のグラフト吻合部を照らし合わせる作業が不可欠でした。この作業は、自然と血管造影を見る力を鍛えてくれました。
内胸動脈と橈骨動脈でY型composite graftによるバイパス術をうけた、ある患者さんの術後造影では、鎖骨下動脈から内胸動脈に注入された造影剤は、内胸動脈を下っていき、橈骨動脈との分岐部から、橈骨動脈ばかりに流れ、回旋枝、右冠動脈領域を満たしました。前下行枝まで、造影剤は到達しませんでした。左冠動脈造影からの造影では、造影剤が逆流して橈骨動脈を下って行きました。内腔が開存していることは確認できました。ただ、開存か閉塞かでいえば開存ですが、この患者さんの前下行枝領域では、グラフトを吻合する前より、血流が減少しているともいえるかもしれない。これは、「Reverse flow」と名付けました。
学会で、ある先生は、橈骨動脈を使ったY型はダメだ、橈骨動脈が太いからとそちらに血流がとられる、と表現していました。好ましくない現象であることは間違いないのですが、太いから悪い可能性はなくはないが、細ければ良い、という話ではないことは直感的にわかりました。グラフトの太さによるメカニズムの説については、全く同意できませんでしたが、その時はまだ理論武装が十分ではありませんでした。

その7 流儀
動脈グラフト、特に内胸動脈は上手に吻合すれば、開存率が良好で、半永久に閉塞しないかのように語られます。ある意味で事実ですが、しかし、競合血流competitive flowが見られたときには、術後2週間くらいでかなり細く変化し、バイパスとしての機能を失う現象があることも知られています。このcompetitive flowがグラフト閉塞と関係することは、90年代にはほぼ経験的には知られていました。ただし、当時の論文では、遠隔期に閉塞した内胸動脈グラフトについて、振り返って術直後の造影を見ると、competitive flowであったものが多い、とするものでしっかりと証明はされていませんでした。はっきりしていないがために、経験則で様々な意見が交わされ、時にはグラフト閉塞の理由として、ある意味便利に使われることもありました。
3枝病変といっても、狭窄の位置や数は個々の患者さんによって異なります。バイパスを3か所、4か所、5か所吻合することときに、どのグラフトを合計何本採取し、どの形にグラフトを配置し吻合するか、どの枝のどの部分にどの向きに吻合し、あるいは吻合せずスルーするか、橈骨動脈や大伏在静脈などの遊離グラフトであれば、中枢側の端をどこに吻合するか、など、手術の方法、グラフトの形態、デザインは無数にあると言ってよいでしょう。Composite graftであれば、すでに論文にありますが、Y型、I型、K型などがその例です。ベストな形はどれなのでしょうか。これを突き詰めたい気持ちが沸々と湧いてきました。現状は、執刀医が患者さんの力量を見極めて、最善と考える形態にバイパスを作成するのですが、異なる医師、異なる施設では、異なったベストが存在することになります。
ベストを判定しようとするならば、究極的には患者さんの心臓が元気で長く動き続けること、つまり生存率が高いグラフト形態を探せばよいかもしれません。ただ、これを証明するには、非現実的な長い年月と、全身的な多くのバイアスを処理しなければならず、どう考えても、自分の能力をはるかに超えています。このため、別な評価ポイントが必要でした。論理的に正しく、時間がかからない、患者さんに追加の負担とならない何か。
もうひとつ、興味の対象としてcompetitive flowを突き詰めたい気持ちは明確でした。Competitive flowは、標的冠動脈の狭窄が軽度であるときに起こり、術後早期の造影検査で確認できます。また、これに関連するグラフトの閉塞は、比較的早期、概ね1~2年以内に起きますので、比較的短期間で完結します。このcompetitive flowが、動脈グラフトの閉塞の予兆もしくはハイリスク群とすると、competitive flowが少ないグラフトデザインは、高い開存率が期待できる良いデザイン、ある意味でベストと言えるのではないか。
私のこだわりは、回旋枝にXXグラフトが最善、右冠動脈にはYYグラフトがおススメというような、枝ごとに区別して考えるのではなく、あくまで心臓を全体として捉えて、冠動脈のあちこちの狭窄により血流不足と血流バランスが乱れている状態を、複数のバイパスをどのように作成すると血流不足とバランスを回復することができるか、言い換えるなら、個々の患者さんの冠動脈の枝ぶり、病変の部位、進行度などの特徴に合わせる「流儀」を確立することにありました。

その6 
日本中多くの病院で、退院前にほぼ全例カテーテル検査でグラフトの術後評価を行っていました。日本では当たり前でしたが、海外ではまれとのことで、貴重なデータとなり、多くの論文となりました。
グラフトの近位側から入った造影剤は、開存するグラフト内を通って冠動脈に流れていくのが通常です。ただ、sequential吻合やcomposite graftとしたときには、グラフトは開存していても、造影剤は、ときに冠動脈からグラフトを、時には遡って流れ、再び別の冠動脈に流れていきました。
冠動脈バイパスの学会発表は、臨床の奥深さを十分に反映していませんでした。ITAをLADに、SVGをRCAに、といった、どの枝にどのグラフトを使うかの視点から「グラフトと標的冠動脈枝と1対のペア」となって、早期の開存率何%、カプランマイヤーが出てきて、5年何%、10年何%などといったものでした。古典的な冠動脈バイパス手術では、そのようなグラフトの構成や考え方が普通であったと思います。しかし、技術が向上し、限りある動脈グラフトを最大限活用するためにsequential吻合を用いたり、上行大動脈の手術操作を避けて、多枝バイパスするために、composite graftとしたりすることが当たり前となり、静脈グラフトでも、1本の長い静脈で心臓を一回りして、1本で何か所も吻合するスタイルが好まれるようになり、「グラフトと標的冠動脈枝と1対のペア」でのデータ集計には馴染まないように変化していました。特に、Kobayashi’s specialのバイパスグラフトの開存率を評価するにあたり、1対1の開存率が意味を成すのはITA-LADだけで、回旋枝と右冠動脈の開存率は、今までと違う、新しい集計の方法、グラフトの優劣の議論の方法が必要でした。
バイパスの良し悪し、手術の良し悪しについては、常に検証し続けなければなりません。これには、心臓がどれだけ動き続けたか、バイパスがどれだけ流れ続けたか、こういったデータが得られればとても意義があります。しかし、がんや脳卒中など、ほかの病気で心臓が止まることもありますし、合併する腎機能や肝機能、生活習慣など、多くのバイアス排除しなければ、手術の効果を判定できません。また、グラフトの開存・閉塞は、造影の検査をしなければなりませんので、通常は、症状の出てきた患者さんのデータばかりが色濃く反映されることになります。
目の前に難しいパズルを置かれたような、厄介だが根気よく取り組めば解けるのではないか、というような気持ちになりました。

その5 チェコの心臓外科医
小林順二郎先生は、オフポンプ・aorta no touch・全動脈冠動脈バイパス、あるいはコンポジットグラフトの達人として、名を馳せていました。海外の学会で話しかけてきたチェコ人のマレック先生が、今度チェコに来て教えてくれ、ということになり、その後のウィーンでのEACTSのついでに、チェコの病院に呼ばれました。チェコの病院出入りの業者が運転するホンダシビックセダンで、世界遺産の三位一体像があるオロモウツに陸路で向かいました。シビックは良い車だ、運転手は言いながら、国境を越えて、高速道路ではメーターが140kmを指していました。車がとても少なかったのが幸いして、恐怖は感じませんでした。
手術室では、マレック先生は意外に針さばきも美しく、吻合も上手でした。手術経験が豊富で、橈骨動脈の中枢側吻合部の横の伴走する静脈の断端にクリップしないと出血する、などと言っていましたので、こだわりというか、観察眼というか、良い意味でかなり細かい性格でした。彼の上司は、オンポンプのconventionalな術式に固執しているが、今後のことを考えて、動脈グラフトでのオフポンプを教えてほしいとのことでした。新しいことを始めるときにエキスパートを呼ぶ、ということです。話をして分かったのですが、術後造影の経験が乏しく、瞬き少なく相手の目を見て話すタイプの彼は、小林先生の目を凝視して、次々に質問を浴びせて、頷いたり納得したりしていました。
チェコの外科医にとって、EACTSの参加費は給料?か月分で、とても正規には参加できないといっていました。日本人にも高い金額ではありますが、たとえ自費でも不可能な額ではないので、日本人はやはり恵まれていることを知りました。のちに、チェコ語の教科書を執筆し、挿絵入りで我々の論文を引用してくれました。
マレック先生は、コンポジットの聖地(?)大阪に滞在したことがあります。関空に迎えに行くと、ゲートから金髪の美人と出てきて、フライト中に知り合って、ずっと話をしていたとのことでした。日本でもデートするように誘ったが、実現できないことを残念がっていました。日本の女性とも話がしたいとのことで、たまたま英語のできるナースが病棟にいたので、国際的異文化異業種のコミュニケーションをしました。コメは腹持ちが悪い、やっぱりパンでないと力が出ない、と日本人とは真逆のことを言っていました。新幹線に乗りたいとのことで、週末に姫路城を見に行き、梅田のヨドバシカメラで私に赤いアイロンを選んでくれました。
ある日、マレックが見学した手術は、オフポンプ冠動脈バイパスで、LITA-LAD、RITA-RA-PL-PL-4PDといった感じの、”Kobayashi’s special”ともいうべきグラフトデザインでした。おそらく、「もう一本いっとく?」などと言いながら、いつも通り、何事もなくオフポンプでの吻合が終了したのち、バイパスグラフトのトランジットタイム流量測定を見て、マレックは言いました。「4か所も繋いだのに、RITAの流量少なくない?」
流量は、30ml/minくらいでした。「吻合1か所あたり少々ml/minしか流れていない。静脈吻合したらもっと流れる」と。2週間後、カテーテル検査では、グラフトは確かに開存していましたが、マレックの何気ない言葉が思い出されました。

その4 ラディアル
手術方法としてオフポンプが軌道に乗り、戦略的として内胸動脈とともに橈骨動脈をほぼ全例で採取するようになりました。橈骨動脈は、内胸動脈と異なり、弾力があって組織がcuttingしにくくハンドリングが容易です。カテーテル検査で橈骨動脈を使うこともあまりない頃で、今より質も保たれていたと言えるかもしれません。Sequential吻合、side-to-sideで90度クロスしたdiamondの吻合を行うのも、ほとんどの症例で無理なく行うことができ、回旋枝と右冠動脈まで到達可能なことが長所で、静脈を使う必要もなくなりました。本当に全く静脈は使わなかったので、橈骨動脈が2年目以下のレジデントの仕事になりました。ある日、誰が教えたわけでもなく、ある後輩が、驚くほど速く取る方法を身につけました。影響で、他の若手も早くなりました。まるで、初めて道具を使い始めた類人猿というか、人類の進化の一端を見た気がしました。私も、外科医の端くれとして才能に報いなければいけないと思い、ささやかながら、飛び級で内胸動脈の採取をプレゼントしました。
冠動脈カテーテル治療が広く行われていますが、対する冠動脈バイパス術の最大の弱点は、周術期の脳梗塞にあります。橈骨動脈は、内胸動脈の中腹、もしくは先端に吻合して、コンポジットグラフトcomposite graftとして使うことで、大動脈の手術操作を回避し、脳梗塞の回避に極めて有効です。全動脈グラフト、完全血行再建、aorta no-touchといった、キーワードをクリアしています。さらに、カテーテル検査をほぼ全例に行っていましたが、橈骨動脈は無様に閉塞することがなく、内胸動脈のsequential吻合より技術的にはるかに容易です。標準的に使用できるグラフトとして、多くの患者さんに対して多くの外科医が適用可能で、ある意味で完成形のような術式とも言えました。

その3 オフポンプ
ある日のカンファレンスで、北村惣一郎先生が言われました。これからは、オフポンプだ、と。我々レジデントは、新しいチャレンジと言われても、実は、変化を恐れているというか、保守的、消極的で、幼かったのかもしれませんが、すぐには気乗りがしませんでした。オフポンプへの移行期は、前下行枝の本幹でなく中隔枝に吻合するから、という理由でポンプに乗せた症例もありました。スタッフの先生にも変化を望まない気持ちがあったのかもしれません。
オフポンプの黎明期から第一助手として、間近で経験できたことは、かけがえのないことでした。Vfや心停止はほとんどありませんでしたが、筋肉内走行のLADを探して、右室から出血が起きたり、心尖部のポジショナーの吸引で血腫が出来たり、オフポンプならではのトラブルを回避したり切り抜ける経験を、助手として共有させてもらうことができました。現在はそういったラーニングカーブを登り切った状態にありますから、今から始めて、オフポンプをマスターすることは、難しい環境となっています。初めから要求されるレベルが高いこと、また、トラブルがあまり起きなくなって、トラブルシューティングが身につかないことなどが、難しくしているかもしれません。経験だけから学ぶのは愚かですが、教えることの限界はあります。落とし穴の位置や心臓の限界までは、教えようとしても、全ては伝わらないでしょう。

その2 ジュウカクエン
当時は、最も恐れる合併症がありました。創部の感染です。患者さんにとって、レジデントにとっても、縦隔炎が恐怖の合併症でした。術後、発熱やCRPに一喜一憂し、創が自潰したりCTで異常があれば、切開排膿、ICUでの洗浄がお決まりのコースでした。子供や赤ちゃんでも開胸洗浄することもあり、冠動脈バイパスに限った合併症ではありませんでしたが、両側内胸動脈を採取すると、さらに、インシュリン治療の糖尿病や透析腎不全などが重なると、ますます創治癒が不良となり、手術方法との因果関係が強い点では、他の手術とは違いがありました。若い患者さんでも生命の危機に直結する深刻なものでした。
今とは違った考え方での治療が当時は標準的でした。創治癒の促進より、菌を制圧することに重点が置かれ、創部を開放し、菌が陰性となるまで、時に鎮静、挿管し、イソジンや酸性水で洗浄しました。時には、感染が原因というより、治療の負担が大きすぎて、状態が悪化してしまうことがあったようです。
その後、創感染の治療は変化しました。抗生剤の使い方が専門化し、洗練されただけでなく、食事をとりながら良い栄養状態で管理して、創洗浄を継続、ある程度のところで、必要とあらば形成外科と連携して創閉鎖を行う手術を行う方針となっています。基本的に人工物を基本的に使用しない冠動脈バイパスの術後では、救命できる確率がかなり高まりました。縦隔炎だけを目の敵にして、必要以上に恐れることは、かえって遠隔成績を犠牲にすることにもなりかねません。

その1 初吻合
1997年5月から国立循環器病センター(現国立循環器病研究センター)にレジデントとして勤務しました。ここでも、大血管や先天性のチームの勢いと比べると、冠動脈バイパスは血管を繋ぐだけの地味な手術で、やろうと思えばだれでもできるように考えられていました。バウムクーヘンのようなシネフィルムをガラガラと回して、冠動脈を確認していました。手術日の朝には、カンファレンスへ持参し、術者が最終確認できるように、手術室に準備しなければなりませんでした。内胸動脈は術者のスタッフが自ら採取し、レジデントは静脈を取りました。人工心肺を開始し、心臓を止めて、グラフトと冠動脈を吻合する術式で、時には、止血に難渋することもありました。1998年には、奈良医大から北村惣一郎先生が副院長で来られました。タダものではない先生が来られたことは、直ぐにわかりました。教育にも熱心で、レジデントに弁置換をさせてくれたりもしましたが、若手の閉胸が遅い、同じところを何回も見ている、2時間もなにをやっているのかと、叱咤されました。
初めてのバイパス手術は、北村先生の症例でした。Dor手術を行ったあとのついでのLITA-LAD吻合です。heelはmattressで結紮せずに連続でtoeまで連続縫うやり方でした。当時、緊張と、倍率2倍の拡大鏡だったので、正直なところ、よく見えていなかったのですが、もたもたしていると、見えとんのか!と喝が入り、ますます見えなくなりました。今思えば、緊張でモノが見えなくなるのは初めての経験でした。術後、グラフト造影検査を行うと、吻合部直上のITAがやや細く見え、レポートには25-50%と書かれていました。北村先生でなく、他の先生の症例だったら50%か75%と書かれていたかもしれない、と勝手に安堵しました。

プロローグ
 私の心臓血管外科医としての歩みと機を同じくして、冠動脈バイパス術は、大きな変化を遂げてきました。この変化は、自分に対して興味を刺激し、好奇心で地味で地道な作業を乗り切ることで、大きなチャンスをもたらしてくれました。「冠動脈バイパス術との20年」と題して、これまでを振り返りたいと思います。
私は、医学部卒業間もない1995年4月から千葉大学医学部附属病院に勤務しました。当時の教授は中島伸之先生で、心臓血管外科医でしたが主に大動脈が専門でした。あるとき、中島先生がお世話になった先生が狭心症で入院され、冠動脈バイパスを受けられることになりました。先天性や大動脈に比べると、当時は恐らく冠動脈バイパスはやや地味な存在で、冠動脈を専門とする心臓血管外科医は、今ほどいませんでした。外から有名な先生を呼んで手術が行われました。先輩の先生方は、驚くようなスピードや目を見張るようなテクニックというほどではなかった、しっかりとした着実な手術だった、と言っていました。

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