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冠動脈バイパス術との20年 第4弾掲載しました 2018.08.04

冠動脈バイパス術との20年

第一部 大阪編

その5 チェコの心臓外科医
小林順二郎先生は、オフポンプ・aorta no touch・全動脈冠動脈バイパス、あるいはコンポジットグラフトの達人として、名を馳せていました。海外の学会で話しかけてきたチェコ人のマレック先生が、今度チェコに来て教えてくれ、ということになり、その後のウィーンでのEACTSのついでに、チェコの病院に呼ばれました。チェコの病院出入りの業者が運転するホンダシビックセダンで、世界遺産の三位一体像があるオロモウツに陸路で向かいました。シビックは良い車だ、運転手は言いながら、国境を越えて、高速道路ではメーターが140kmを指していました。車がとても少なかったのが幸いして、恐怖は感じませんでした。
手術室では、マレック先生は意外に針さばきも美しく、吻合も上手でした。手術経験が豊富で、橈骨動脈の中枢側吻合部の横の伴走する静脈の断端にクリップしないと出血する、などと言っていましたので、こだわりというか、観察眼というか、良い意味でかなり細かい性格でした。彼の上司は、オンポンプのconventionalな術式に固執しているが、今後のことを考えて、動脈グラフトでのオフポンプを教えてほしいとのことでした。新しいことを始めるときにエキスパートを呼ぶ、ということです。話をして分かったのですが、術後造影の経験が乏しく、瞬き少なく相手の目を見て話すタイプの彼は、小林先生の目を凝視して、次々に質問を浴びせて、頷いたり納得したりしていました。
チェコの外科医にとって、EACTSの参加費は給料?か月分で、とても正規には参加できないといっていました。日本人にも高い金額ではありますが、たとえ自費でも不可能な額ではないので、日本人はやはり恵まれていることを知りました。のちに、チェコ語の教科書を執筆し、挿絵入りで我々の論文を引用してくれました。
マレック先生は、コンポジットの聖地(?)大阪に滞在したことがあります。関空に迎えに行くと、ゲートから金髪の美人と出てきて、フライト中に知り合って、ずっと話をしていたとのことでした。日本でもデートするように誘ったが、実現できないことを残念がっていました。日本の女性とも話がしたいとのことで、たまたま英語のできるナースが病棟にいたので、国際的異文化異業種のコミュニケーションをしました。コメは腹持ちが悪い、やっぱりパンでないと力が出ない、と日本人とは真逆のことを言っていました。新幹線に乗りたいとのことで、週末に姫路城を見に行き、梅田のヨドバシカメラで私に赤いアイロンを選んでくれました。
ある日、マレックが見学した手術は、オフポンプ冠動脈バイパスで、LITA-LAD、RITA-RA-PL-PL-4PDといった感じの、”Kobayashi’s special”ともいうべきグラフトデザインでした。おそらく、「もう一本いっとく?」などと言いながら、いつも通り、何事もなくオフポンプでの吻合が終了したのち、バイパスグラフトのトランジットタイム流量測定を見て、マレックは言いました。「4か所も繋いだのに、RITAの流量少なくない?」
流量は、30ml/minくらいでした。「吻合1か所あたり少々ml/minしか流れていない。静脈吻合したらもっと流れる」と。2週間後、カテーテル検査では、グラフトは確かに開存していましたが、マレックの何気ない言葉が思い出されました。

その4 ラディアル
手術方法としてオフポンプが軌道に乗り、戦略的として内胸動脈とともに橈骨動脈をほぼ全例で採取するようになりました。橈骨動脈は、内胸動脈と異なり、弾力があって組織がcuttingしにくくハンドリングが容易です。カテーテル検査で橈骨動脈を使うこともあまりない頃で、今より質も保たれていたと言えるかもしれません。Sequential吻合、side-to-sideで90度クロスしたdiamondの吻合を行うのも、ほとんどの症例で無理なく行うことができ、回旋枝と右冠動脈まで到達可能なことが長所で、静脈を使う必要もなくなりました。本当に全く静脈は使わなかったので、橈骨動脈が2年目以下のレジデントの仕事になりました。ある日、誰が教えたわけでもなく、ある後輩が、驚くほど速く取る方法を身につけました。影響で、他の若手も早くなりました。まるで、初めて道具を使い始めた類人猿というか、人類の進化の一端を見た気がしました。私も、外科医の端くれとして才能に報いなければいけないと思い、ささやかながら、飛び級で内胸動脈の採取をプレゼントしました。
冠動脈カテーテル治療が広く行われていますが、対する冠動脈バイパス術の最大の弱点は、周術期の脳梗塞にあります。橈骨動脈は、内胸動脈の中腹、もしくは先端に吻合して、コンポジットグラフトcomposite graftとして使うことで、大動脈の手術操作を回避し、脳梗塞の回避に極めて有効です。全動脈グラフト、完全血行再建、aorta no-touchといった、キーワードをクリアしています。さらに、カテーテル検査をほぼ全例に行っていましたが、橈骨動脈は無様に閉塞することがなく、内胸動脈のsequential吻合より技術的にはるかに容易です。標準的に使用できるグラフトとして、多くの患者さんに対して多くの外科医が適用可能で、ある意味で完成形のような術式とも言えました。

その3 オフポンプ
ある日のカンファレンスで、北村惣一郎先生が言われました。これからは、オフポンプだ、と。我々レジデントは、新しいチャレンジと言われても、実は、変化を恐れているというか、保守的、消極的で、幼かったのかもしれませんが、すぐには気乗りがしませんでした。オフポンプへの移行期は、前下行枝の本幹でなく中隔枝に吻合するから、という理由でポンプに乗せた症例もありました。スタッフの先生にも変化を望まない気持ちがあったのかもしれません。
オフポンプの黎明期から第一助手として、間近で経験できたことは、かけがえのないことでした。Vfや心停止はほとんどありませんでしたが、筋肉内走行のLADを探して、右室から出血が起きたり、心尖部のポジショナーの吸引で血腫が出来たり、オフポンプならではのトラブルを回避したり切り抜ける経験を、助手として共有させてもらうことができました。現在はそういったラーニングカーブを登り切った状態にありますから、今から始めて、オフポンプをマスターすることは、難しい環境となっています。初めから要求されるレベルが高いこと、また、トラブルがあまり起きなくなって、トラブルシューティングが身につかないことなどが、難しくしているかもしれません。経験だけから学ぶのは愚かですが、教えることの限界はあります。落とし穴の位置や心臓の限界までは、教えようとしても、全ては伝わらないでしょう。

その2 ジュウカクエン
当時は、最も恐れる合併症がありました。創部の感染です。患者さんにとって、レジデントにとっても、縦隔炎が恐怖の合併症でした。術後、発熱やCRPに一喜一憂し、創が自潰したりCTで異常があれば、切開排膿、ICUでの洗浄がお決まりのコースでした。子供や赤ちゃんでも開胸洗浄することもあり、冠動脈バイパスに限った合併症ではありませんでしたが、両側内胸動脈を採取すると、さらに、インシュリン治療の糖尿病や透析腎不全などが重なると、ますます創治癒が不良となり、手術方法との因果関係が強い点では、他の手術とは違いがありました。若い患者さんでも生命の危機に直結する深刻なものでした。
今とは違った考え方での治療が当時は標準的でした。創治癒の促進より、菌を制圧することに重点が置かれ、創部を開放し、菌が陰性となるまで、時に鎮静、挿管し、イソジンや酸性水で洗浄しました。時には、感染が原因というより、治療の負担が大きすぎて、状態が悪化してしまうことがあったようです。
その後、創感染の治療は変化しました。抗生剤の使い方が専門化し、洗練されただけでなく、食事をとりながら良い栄養状態で管理して、創洗浄を継続、ある程度のところで、必要とあらば形成外科と連携して創閉鎖を行う手術を行う方針となっています。基本的に人工物を基本的に使用しない冠動脈バイパスの術後では、救命できる確率がかなり高まりました。縦隔炎だけを目の敵にして、必要以上に恐れることは、かえって遠隔成績を犠牲にすることにもなりかねません。

その1 初吻合
1997年5月から国立循環器病センター(現国立循環器病研究センター)にレジデントとして勤務しました。ここでも、大血管や先天性のチームの勢いと比べると、冠動脈バイパスは血管を繋ぐだけの地味な手術で、やろうと思えばだれでもできるように考えられていました。バウムクーヘンのようなシネフィルムをガラガラと回して、冠動脈を確認していました。手術日の朝には、カンファレンスへ持参し、術者が最終確認できるように、手術室に準備しなければなりませんでした。内胸動脈は術者のスタッフが自ら採取し、レジデントは静脈を取りました。人工心肺を開始し、心臓を止めて、グラフトと冠動脈を吻合する術式で、時には、止血に難渋することもありました。1998年には、奈良医大から北村惣一郎先生が副院長で来られました。タダものではない先生が来られたことは、直ぐにわかりました。教育にも熱心で、レジデントに弁置換をさせてくれたりもしましたが、若手の閉胸が遅い、同じところを何回も見ている、2時間もなにをやっているのかと、叱咤されました。
初めてのバイパス手術は、北村先生の症例でした。Dor手術を行ったあとのついでのLITA-LAD吻合です。heelはmattressで結紮せずに連続でtoeまで連続縫うやり方でした。当時、緊張と、倍率2倍の拡大鏡だったので、正直なところ、よく見えていなかったのですが、もたもたしていると、見えとんのか!と喝が入り、ますます見えなくなりました。今思えば、緊張でモノが見えなくなるのは初めての経験でした。術後、グラフト造影検査を行うと、吻合部直上のITAがやや細く見え、レポートには25-50%と書かれていました。北村先生でなく、他の先生の症例だったら50%か75%と書かれていたかもしれない、と勝手に安堵しました。

プロローグ
 私の心臓血管外科医としての歩みと機を同じくして、冠動脈バイパス術は、大きな変化を遂げてきました。この変化は、自分に対して興味を刺激し、好奇心で地味で地道な作業を乗り切ることで、大きなチャンスをもたらしてくれました。「冠動脈バイパス術との20年」と題して、これまでを振り返りたいと思います。
私は、医学部卒業間もない1995年4月から千葉大学医学部附属病院に勤務しました。当時の教授は中島伸之先生で、心臓血管外科医でしたが主に大動脈が専門でした。あるとき、中島先生がお世話になった先生が狭心症で入院され、冠動脈バイパスを受けられることになりました。先天性や大動脈に比べると、当時は恐らく冠動脈バイパスはやや地味な存在で、冠動脈を専門とする心臓血管外科医は、今ほどいませんでした。外から有名な先生を呼んで手術が行われました。先輩の先生方は、驚くようなスピードや目を見張るようなテクニックというほどではなかった、しっかりとした着実な手術だった、と言っていました。

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