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中嶋博之教授の定期連載を開始いたします.テーマ;冠動脈バイパス術との20年 2018.07.05

第一部 大阪編

 

プロローグ

 私の心臓血管外科医としての歩みと気を同じくして、冠動脈バイパス術は、大きな変化を遂げてきました。この変化は、自分に対して興味を刺激し、好奇心で地味で地道な作業を乗り切ることで、大きなチャンスをもたらしてくれました。「冠動脈バイパス術との20年」と題して、これまでを振り返りたいと思います。

私は、医学部卒業間もない1995年4月から千葉大学医学部附属病院に勤務しました。当時の教授は中島伸之先生で、心臓血管外科医でしたが主に大動脈が専門でした。あるとき、中島先生がお世話になった先生が狭心症で入院され、冠動脈バイパスを受けられることになりました。先天性や大動脈に比べると、当時は恐らく冠動脈バイパスはやや地味な存在で、冠動脈を専門とする心臓血管外科医は、今ほどいませんでした。外から有名な先生を呼んで手術が行われました。先輩の先生方は、驚くようなスピードや目を見張るようなテクニックというほどではなかった、しっかりとした着実な手術だった、と言っていました。

 

 

その1 初吻合

1997年5月から国立循環器病センター(現国立循環器病研究センター)にレジデントとして勤務しました。ここでも、大血管や先天性のチームの勢いと比べると、冠動脈バイパスは血管を繋ぐだけの地味な手術で、やろうと思えばだれでもできるように考えられていました。バウムクーヘンのようなシネフィルムをガラガラと回して、冠動脈を確認していました。手術日の朝には、カンファレンスへ持参し、術者が最終確認できるように、手術室に準備しなければなりませんでした。内胸動脈は術者のスタッフが自ら採取し、レジデントは静脈を取りました。人工心肺を開始し、心臓を止めて、グラフトと冠動脈を吻合する術式で、時には、止血に難渋することもありました。1998年には、奈良医大から北村惣一郎先生が副院長で来られました。タダものではない先生が来られたことは、直ぐにわかりました。教育にも熱心で、レジデントに弁置換をさせてくれたりもしましたが、若手の閉胸が遅い、同じところを何回も見ている、2時間もなにをやっているのかと、叱咤されました。

初めてのバイパス手術は、北村先生の症例でした。Dor手術を行ったあとのついでのLITA-LAD吻合です。heelはmattressで結紮せずに連続でtoeまで連続縫うやり方でした。当時、緊張と、倍率2倍の拡大鏡だったので、正直なところ、よく見えていなかったのですが、もたもたしていると、見えとんのか!と喝が入り、ますます見えなくなりました。今思えば、緊張でモノが見えなくなるのは初めての経験でした。術後、グラフト造影検査を行うと、吻合部直上のITAがやや細く見え、レポートには25-50%と書かれていました。北村先生でなく、他の先生の症例だったら50%か75%と書かれていたかもしれない、と勝手に安堵しました。

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